宮崎市史

  他の都市部に比べると歴史も浅く、変化に乏しい「宮崎市」かも知れませんが、この地で起こった出来事、その歴史のひとつひとつを知り、現在の街並みにいたるまでの経緯を知ることによって、普段何気なく過ごしていた宮崎市街地が、もっと違ったものに見えて楽しむことが出来そうな気がします。
歴史を知れば「宮崎市をもっと楽しめる ?!」。そんな思いから、宮崎市の歴史と、それらに関連づいた写真、記事・広告を調査しながら少しずつリンクさせてゆきたいと思います。
記述に誤りなどお気付きの点がございましたら、こちらよりお問い合わせ下さい。

今から500年前くらいは"城ヶ崎"が栄えていたとか..

城ヶ崎の上方文化

 
室町時代1551年(天文20年)、太田七郎左衛門忠延が大淀川の右岸の河口付近にある城ヶ崎に町を開いた。この城ヶ崎は赤江港を控えた商人の町として上方との交易が行われ、俳句などの町人文化が発達し、江戸時代が終わるまで繁栄した。それ以外の地域は農村であり、各藩の飛び地や天領が複雑に入り組んだ辺境の地であった。佐土原は佐土原藩として、高岡は薩摩藩外城として、清武は飫肥藩清武郷としてある程度の拠点性を有していた。


 

今から150年前くらいは...

美々県と都城県の誕生。大淀川は県境

 
1871年の廃藩置県美々津(みみつ)県と都城(みやこのじょう)県が誕生した時は、大淀川が県境で、現宮崎市域は県境地帯であった。しかし1873年に美々津県都城県東部が合併し、県の中央部に県庁を置く必要から、宮崎郡上別府村に県庁が置かれ、宮崎県が誕生した。

 
 

 

鹿児島県に合併

 
1876年に宮崎県は鹿児島県に合併されて県庁が支庁となり、翌1877年明治10年)に西南戦争が勃発すると、旧士族はこぞって薩摩士族西郷隆盛一派に加わり、敗戦によって経済も混乱した。


 

分県運動と宮崎県の再置

 
1883年に川越進らによる分県運動によって宮崎県が再置されると、再び宮崎県庁が上別府に置かれ、1889年の町村制施行で宮崎町が誕生し、後に宮崎市となる。こうして、地理的に県の中心部に位置し、広い宮崎平野を後背地とする宮崎市は、県庁を中心として発展していくこととなった。

1889 明治22  5/1 宮崎町、大淀村、大宮村、あおき村、赤江村、瓜生野村、木花村、青島村、倉岡村、住吉村、生目村 誕生。現在の市域となる町村が発足


 

宮崎市 誕生!!

「宮崎市制」認可

 
1924 大正13 3/27「宮崎市制」認可。大正1341日より、宮崎県宮崎町、大淀町、および大宮村を廃し、その区域を以って宮崎市を置く。宮崎町、大淀町、大宮村が合併。宮崎市となる。
 
 


製作中

随時追加 作業中

1952 昭和27 10/21 橘百貨店が開店 県内資本による初の本格的デパート
 
1953 昭和28 3/25 上野町 京極旅館火災 マッチ
 
1955 昭和30 6月 映画館ロマン座後に山形屋百貨店が建設されることになった 来春3月開店予定 ロマン座は山形屋に売却され、橘百貨店裏通りに新ロマン座を建築
 
1956 昭和31 2/17 橘百貨店が宮崎で初のエスカレーターを設置 マッチ


1945 昭和20 7/27
空襲 数回にわたり空襲警報 戦闘機来襲 橘橋を一部破壊。内海も空襲。
1945 昭和20年 7/28
空襲 折生迫・内海・吾田・高鍋方面へ来襲したが空爆はなかった
1945 昭和20年 7/29
空襲 大中小機約30機が数波に分かれて圏内に侵入、宮崎・飫肥・油津・内海・青島・木花・高鍋地方に銃爆撃
1945 昭和20年 7/30
空襲 小型機31機が来襲、列車などにも銃撃。 P38  20機が大淀方面、恵美須町、吾妻新地方面を空爆
1945 昭和20年 8/3
空襲 宮崎駅の一部と宮崎管理部庁舎など焼失
1945 昭和20年 8/6
●B29 広島に原子爆弾投下
1945 昭和20年 8/8
●ソ連、対日宣戦布告。北満・朝鮮・樺太に侵攻開始
1945 昭和20年 8/9
●B29 長崎に原子爆弾投下
1945 昭和20年 8/9
空襲 木花国民学校校舎が銃撃を受け被害 死傷者を出した
1945 昭和20年 8/10
空襲 焼い弾攻撃 B24  18機が六編隊で三波に分かれて市内に侵入し油脂焼い弾に夜攻撃を行った。市内各所に火災が発生。高千穂通・広島通・老松通・旭通・川原町・上野町4丁目など一斉に火の海となった。焼い弾攻撃の後も敵機は数回に渡り来襲し、市街地の人影に機銃弾を浴びせた。このため、市民も警防団もまったく消化活動が出来ず、どの町もどの建物も燃え尽きるまで燃えた。
1945 昭和20年 8/11
空襲 B24 P51戦爆連合で16機が市内上空に侵入し、波状攻撃を終日繰り返し、まだ燃えくすぶっている焼け跡や市街地に銃爆撃を加えた。午前中、橘橋北詰めに中型爆弾が投下され橘橋二箇所損傷。
1945 昭和20年 8/12
空襲 焼い弾攻撃 爆撃機が大挙来襲 市街地に焼い弾を投下。江平町・橘通・別府町・清水町・高千穂通・高松通・恵美須町・上野町・川原町・松山町などの町並みは一斉に炎上。警察署・税務署をはじめ学校・駅・病院・工場・劇場・寺院などかずおおくの建物が焼失した。市街地は一夜で、東西は宮崎駅からだいくまちまで、南北は橘通3丁目から江平まで一望のもとに眺められる焼け野原となった。
 

昭和21年「戦災地図宮崎市」

焼失した建物
宮崎警察署、宮崎税務署、県立第一宮高女、宮崎師範男子部、同女史部、同両付属国民学校、工業専門学校、県立宮崎中学校(現大宮高校)、県立宮崎女子商業、県立江陽高女、第四宮崎国民学校(現大宮小学校)、第六宮崎国民学校(現江平小学校)、花ケ島(現宮崎神宮)駅、県立宮崎病院、鉄道病院、谷口病院、平島病院、矢野病院、川田病院、山形屋百貨店(現橘東一丁目)、孔雀劇場、宮崎劇場、寺院帝釈寺、寺院高野山、川崎航空、木材航空会社、第一鉄工所、第一・第二高千穂工場、猪の口鉄工所、再生舎、市営青果市場、精神病者収容所(現宮崎養護院)、天地堂工場、知事官舎、紫明館、宮崎市蚕種試験場など
 
1945 昭和20年 8/15
●終戦 第二次世界大戦終わる
終戦 第二国民学校(現小戸小)に市職員集合
 

宮崎罹災状況図
建設省編 戦災復興誌より

戦時被害

宮崎市の被害
宮崎市が実際に空襲を受けた日と回数
・昭和203月 1回
・昭和20年4月 6回
・昭和20年5月 2回
・昭和20年6月 1回
・昭和20年7月 6回
・昭和20年8月 3回
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 累計 19回
 
なかでも8月の
810日 焼夷弾
8月11日 爆弾
8月12日 焼夷弾
の空襲は最も熾烈を極め、その被害だけでも全焼1,991戸、半焼22戸、死者26名、重軽傷者17名に達し、繁華街の大半は瞬時にして廃墟と化してしまった。
 
建設省 戦災復興誌より


外部リンク
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