更科・海幸・花月亭

更科・海幸・花月亭

昭和28年創業の活魚料理の名店の歴史

宮崎市若草通り

 

耕平さんの弟・三朗さんが学生時代にデザインしたシンボルマーク

 

宮崎市の日本料理の銘店「花月亭」店主 日高耕平さんの45年の料理人人生、「更科・海幸・花月亭」のお話をお伺いしました。(平成27年12月年末 閉業)
 

食堂 更科から日本料理 海幸、そして花月亭

昭和31年 日高耕平さんの祖父・日高平助さんは宮崎魚市場をつくった人物。その後、耕平さんのお父さん日高平兵衛さん、耕平さんのお兄さんが宮崎魚市場を継ぎます。日高さんの家系は魚市場創設以前から魚を専門に取り扱う一家でした。
 
日高耕平さんの父・日高平兵衛さんは、市場の運営を行いながら山平水産という小売部を若草通りで問屋を営んでいました。やがて市場の仕事が忙しくなりはじめ、父親・平兵衛さんは市場に専従することになります。若草通りでの小売業の継続は母親だけでは困難という事態になり、女手ひとつでも出来る商売は何かないか..? ということで食堂業の案が浮上します。
ちようどその頃、上野町で老夫婦が経営する蕎麦屋(更科)が店を閉める話を聞き、耕平さんの母はその店で蕎麦作りを習い、そしてその暖簾を継ぐことになります。
 

上野町の蕎麦屋「更科」のマッチ

 
こうして、山平水産小売部の店舗は、蕎麦と洋食を取り入れた食堂として新しくスタートすることになり、昭和28年 食堂「更科」が創業しました。
その後、蕎麦と洋食のお店として順調に時を重ねて行きますが、昭和42年頃、母親はお店の運営内容を見直すことを考えはじめます。もともとは魚屋出身で魚を得意としていたため和食のお店に修正することを考案。ちょうどその頃、父親が福岡の水産会社が経営する日本料理店「海幸」のお店に招かれ、「これはいい!! 」ということで、帰省後、夫婦で魚を主力とした日本料理のお店「海幸」と名を改めてその年の12月に再スタートします。
 

その当時はまだ学生だった耕平さんでしたが。昭和46年に耕平さんは大学を卒業して、実家の「海幸」の板場に入ることになります。そしてその翌年、ご結婚。二代目としての修行に入り、やがて社長となり「海幸」を育みます。平成8年には宮崎県庁そばに支店「花月亭」を開店。食へのこだわりと和やかな人柄で、多くの市民に愛される名店として定着します。平成24年に「海幸本店」を閉店し、「花月亭」は「海幸」の名を合併させ「海幸花月亭」と看板名を改称し、名前を継ぎます。

 
 

その後、女将(奥様)さんと二人三脚、宮崎のファンに支えられますが、2015(平成27年)12月年末を最後に、自ら40余年の料理人としての歴史に幕を閉じました。
 


どのような思い出がありますか?
 

更科時代の思い出
学生時代、お店の手伝いで、夏の花火大会に頃になると店の中でずっとシロクマ(かき氷)つくりをさせられました、花火大会なんて一度も見たことは無かったです。初めて、宮崎の花火大会を見たのは結婚してこどもが生まれてから初めて見ました。昭和52-3年頃だったと思います。橘通り一丁目にある奥さんの実家からでした。
 
更科から海幸に変わった頃の思い出
昭和42年東京の大学に入学しました。家を発つまでの自宅とお店は油臭い洋食の匂いでしたが、大学から宮崎に帰省した時には店構も"食堂"の店構が、"和食店"の店構に大きく変身し、と同時に、店内に入った時の匂いが油の匂いではなく、酢の匂いに変わっいたことに驚き 商売内容が大きく変ったことを実感したことを今でも思い出します。宮崎に帰省した時には寿司をひとりで4人半前食べました。
 
小学校の5-6年生くらいの頃
年末になると 年越しそば「運蕎麦」の近所への出前の手伝いをさせられたました。同級生の家などに配達に行った時、とても恥ずかしかった思いがあります。
 
橘通りの街並みの思い出
現在の道路拡張前の頃、中央の道路はコンクリート舗装で土の歩道との界にオシロイ花があったことを覚えています。あたりに木製のゴミ箱があり、それをひっくり返してパッチん(めんこ)などの土台として遊び道具にしていました。
 


追記
日高耕平さんは三兄弟。耕平さんのお兄さんは宮崎魚市場の重役として勤められましたが、もう一人、弟さん三朗さんがおられます。実は弟の三朗さんは「海幸」の仕出し部として「海幸大和」として青葉町(昔は大和町)で昨年まで事業を営んでいらっしゃいました。三朗さんからは幼少期の頃の「橘百貨店」「宮崎山形屋」などのデパートの思い出話などを聞かせていただく機会があり、後日、ここでそのお話などを紹介させていただこうと思っています。